teamLab: Everything Exists in Infinite Continuity | teamLab / チームラボ

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teamLab: Everything Exists in Infinite Continuity
2026.9.22(火) - 2027.2.21(日)シカゴ, シカゴ大学スマート美術館
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teamLab: Everything Exists in Infinite Continuity
2026.9.22(火) - 2027.2.21(日)シカゴ, シカゴ大学スマート美術館

作品

闇の海、記憶は奥底から輝く / Sea of Darkness, Memory Shining from the Depths

闇が手前にあり、光はその深淵に存在する。実体と知覚は曖昧になり、物質的な境界は消失する。永遠の時間の中で、海はゆるやかに満ち、また引いていく。
波を描く線の黒は闇、すなわち、光のない状態である。しかし、闇によって描かれた線は、そこに物質も光も存在しないにもかかわらず、光の煌めきよりも手前に現れ、流れ続ける。
存在を認識するとは、そこに物体や光があることではない。存在は、まわりとの関係の中で生まれ、形づくられていく。
ここでの波は、「超主観空間」によって描かれているため、自由な身体を回復させる絵画空間となる。
一方、画面には絵画世界が描かれながらも、同時に強い煌めきがその世界を覆っている。その煌めきは、波の世界を描く光そのものが、画面の表面上で反射することによって生じる。煌めきは、鑑賞者が動かなくても、時間とともに変化し続ける。そしてさらに、環境や鑑賞者の動く身体に呼応して、その姿は変化し、絵画世界の奥から輝く。その煌めきは、画面全体に現れながらも、きわめて個人的な光であり、鑑賞者自身の認識の中にのみ存在する。
この光の煌めきが生む空間は、平面絵画に描かれたイリュージョンとしての奥行きではない。それは、鑑賞者の身体の動きと、波の世界を描く光によって、その瞬間に立ち上がる空間である。物理的な素材は銅のみである。煌めきの点群による絵画空間は、物理的な素材、時間、光、環境、鑑賞者の身体との関係の中で生成され、鑑賞者の認識の中に立ち上がる。その絵画空間は、画面上に現れながら、身体が存在する実空間と連続し、絵画空間の奥へ、身体的な光の空間として広がっていく。
超主観空間による身体的な絵画空間と、煌めく光による身体的な光の空間は重なり合う。そこでは、闇によって描かれた波、銅の表面、光の煌めき、環境、鑑賞者の身体と認識が関係し合い、身体のある空間と連続する、境界のない身体的な光の絵画世界が立ち上がる。

Dissipative Figures - Human

人物は、身体の輪郭によって描かれるのではない。
人が動くとき、空気など周囲の環境も動く。人は生きている限り、世界へエネルギーを散逸し、周囲の環境を動かし続けている。本作は、人物そのものの物質的な境界面を描かず、人が世界へ与え続けるエネルギーと、そこから生じる環境の動きによって、人物の存在を描く。
生命の存在の輪郭は、肉体の境界面ではなく、身体と連続する環境も含めた、曖昧なものである。人は、呼吸し、動き、熱を発し、空気を揺らし、周囲へエネルギーを散逸し続ける。私という存在は、身体と、その身体と連続する環境である。
鑑賞者が作品の前を通るとき、鑑賞者自身もまた、周囲の環境を動かす。その動きは、描かれた人物がいる空間と同一の空間で起きる。描かれた人物の動きと、鑑賞者の動きは、同じエネルギーの流れの中で混ざり合い、人物を描く線は、鑑賞者の動きによって乱れ、変化していく。
人物画は、描かれた人を外から見るための像ではなく、描かれる人と見る人が同じ環境の中で連続する場となる。
石ころのような物体は、外界から遮断された閉じた箱の中に入れても存在し続ける。しかし生命は、そのような閉じた箱の中では存在を維持できない。生命は、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外へ散逸させながら、その構造を維持し続ける。
生命は、海に生まれる渦のように、流れの中にある存在であり、その存在の境界は曖昧で、無限の連続の中の存在である。
生きているということは、世界へエネルギーを散逸し続け、世界と連続する、開いた存在であるということだ。

Dissipative Figures - Murmuration

鳥の群れは、個々の鳥の輪郭によって描かれるのではない。
鳥たちが飛ぶとき、羽ばたきや身体の運動によって、空気など周囲の環境も動く。鳥たちは生きている限り、世界へエネルギーを散逸し、周囲の環境を動かし続けている。本作は、鳥そのものの物質的な境界面を描かず、鳥の群れが世界へ与え続けるエネルギーと、そこから生じる環境の動きによって、群れの存在を描く。
Murmuration は、個々の鳥の集積ではなく、巨大で有機的な集団飛行の現象である。鳥たちは互いに距離を変え、方向を変え、速度を変えながら、ひとつの大きな存在のように空間に立ち上がる。その存在の輪郭は、個々の鳥の身体の境界面ではない。鳥たちの身体と、それらと連続する空気の流れ、周囲へ散逸するエネルギーを含めた、曖昧なものである。
鑑賞者が作品の前を通るとき、鑑賞者自身もまた、周囲の環境を動かす。その動きは、描かれた群れがいる空間と同一の空間で起きる。鳥の群れの動きと、鑑賞者の動きは、同じエネルギーの流れの中で混ざり合い、群れを描く線は、鑑賞者の動きによって乱れ、変化していく。
この絵画は、鳥の群れを外から見るための像ではない。描かれる群れと見る人が、同じ環境の中で連続する場である。群れは画面の向こう側に閉じた存在ではなく、鑑賞者の身体が動かす環境と混ざり合いながら、その姿を変えていく。
石ころのような物体は、外界から遮断された閉じた箱の中に入れても存在し続ける。しかし生命は、そのような閉じた箱の中では存在を維持できない。生命は、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外へ散逸させながら、その構造を維持し続ける。
生命は、海に生まれる渦のように、流れの中にある存在であり、その存在の境界は曖昧で、無限の連続の中の存在である。
Murmuration もまた、流れの中に立ち上がる存在である。個々の鳥の身体、空気の動き、散逸するエネルギー、鑑賞者の身体、そして周囲の環境が連続することで、群れという巨大な現象が生まれる。
生きているということは、世界へエネルギーを散逸し続け、世界と連続する、開いた存在であるということだ。

Order in Chaos

色のストロークは、全体を把握する中心も、外部からの指示も持たない。ストローク同士、そしてストロークと人々とのあいだに局所的に生じる単純な相互作用によって、無秩序へ向かう中で、ひとりでに秩序が生まれ続ける。
ひとつひとつのストロークは、時間的・空間的に離れていても、そこに秩序が生まれると、構成要素は時空間的な離散や可変性を超えて、ひとつの存在として現れる。表層的な形状や大きさが大きく変化し、構成要素が入れ替わったとしても、この時空間的存在は維持される。存在は素材の集積ではなく、秩序そのものである。
この存在は、無秩序の海の一部であり、やがて無秩序の海へと飲み込まれていく。しかしまた、無秩序の海から生まれ続ける。秩序と無秩序、存在と全体は、境界なく連続し、ぶつかり合い、混ざり合いながら、満ち引きし続ける。
本作は、画面の向こう側に空間を現すイリュージョンではない。実際の空間において、ストロークは、その表面上を動き続ける。壁や床は、鑑賞者と作品空間を隔てる境界面ではなく、作品空間そのものが成立する場である。
作品空間は、人々の身体がある空間と同一の座標系の中に存在する。鑑賞者は固定された一点から画面を見るのではない。身体を動かし、視点を移動させながら、秩序と無秩序が生まれ、崩れ、また生まれる時空間的存在の内部を経験する。
本作は、絵画を、完成されたイメージや遠近法的な空間のイリュージョンから、実空間と連続し、局所的な相互作用から自己組織化する時空間的な絵画空間へと拡張する試みである。

質量のない太陽と闇の太陽 / Massless Suns and Dark Suns

私たちは、見ている世界を認識しているのではない。認識している世界を見ている。
ここには、無数の光の球体群がある。人々が近づくと、球体は強く輝き、周囲へと呼応の連鎖を広げていく。
視野を広げ、じっと見ていると、そこには闇が凝固したかのような闇の球体が現れはじめる。しかし、これらの光と闇の球体群は、物理的には存在しない。闇の球体は、カメラに写ることさえない。
球体の表面に、ガラスなどの物体は存在しない。この球体は光だけでできている。物質的な境界面を持たず、身体との境界は曖昧である。本来、この宇宙において、光が凝固し、球体状の塊となることはありえない。つまり、この球体は物理的には存在していない。
これは、人間の認識世界にのみ立ち現れる彫刻、「Cognitive Sculpture / 認識上の彫刻」である。マテリアルは光と環境。そして造形の主体は、鑑賞者自身の身体と認識である。
球体は、それ自体では存在できない。環境との関わりの中で生み出されている。環境がつくる現象が、鑑賞者の動的な身体と認識によってはじめて形づくられ、その認識世界において彫刻となる。
本作は、これまでの物体的存在とは異なる、新たな存在の可能性を模索し、存在とは何かを問う。

不可逆の世界 / The World of Irreversible Change

この作品は、いつかの時代のどこかでもあり、今のここでもある。
作品世界は、現実世界と同じ時間の流れの中にある。作品がある場所の日の出とともに朝が訪れ、日の入りとともに夜がはじまる。作品のある場所で現実に雨が降れば、作品世界にも雨が降る。草花は、季節とともに日々移り変わっていく。
人々の生活も、現実の時間帯や天候によって変化し続ける。季節とともに祭や行事が行われ、日々、様々な物語が加わりながら、人々の営みは続いていく。
作品世界は、鑑賞者のふるまいの影響を受ける。鑑賞者が作品世界の人々に触れると、人々は反応する。触れることが少しであれば、人々はやがて日常へ戻る。しかし、連続的に人々に触れ続けると、近くの者同士は争いをはじめる。争いは殺し合いへ発展し、やがて町全体へ広がり、町は火に包まれる。炎は一年以上続き、人々は死に絶え、町は焼き尽くされる。
一度世界が燃えはじめると、燃える前の世界をもう二度と見ることはできない。鑑賞者のふるまいは、一時的な反応を引き起こすだけではない。それは、作品世界の歴史となり、取り返しのつかない結果として残り続ける。鑑賞者もまた、その結果の当事者である。
誰一人いない荒廃した町にも、現実の時間とともに、日が昇り、日は沈む。時が流れ、数か月後には、焼け跡に新しい草花が芽吹く。草花は、生まれ咲き散ることを繰り返しながら、現実の時間の流れの中で日々移り変わっていく。春には、草木が深々と生い茂り、花は咲き誇り、鳥はさえずる。草花の移ろいを繰り返しながら、世界は続いていく。
人間の営みが終わっても、時間は止まらない。季節は巡り、草花は生まれ、世界は変化し続ける。
鑑賞者は、歴史を引き起こした者として、その結果の中に存在し続ける。

永遠の今の中で連続する生と死 II / Continuous Life and Death at the Now of Eternity II

永遠に連続してきた花々の生と死は、永遠の今と接続する。
作品世界は、私たちが生きている時間と同じ時間の流れの中にある。この場所の日の出とともに明るくなり、日の入りとともに暗くなっていく。そして、季節の移ろいに合わせて、咲いていく花々がゆっくりと変わっていく。
鑑賞者が存在する現実の時間と、花々が生死を繰り返しながら移ろっていく時間は、この場所と作品世界に接続したまま、分断されることなく連続し、重なり合う。
「超主観空間」によって描かれたこの絵画世界は、画面を境界として、作品世界と鑑賞者のいる空間を分断しない。作品世界は鑑賞者の身体がある空間と境界なく連続し、鑑賞者は自由な身体を持ったまま、異なる時間が同一の場で交差するこの空間の中を歩く。
作品は、リアルタイムに描かれ続け、全体として以前の状態が複製されることなく、永遠に変化し続ける。今この瞬間の絵は、二度と見ることができない。
目の前で繰り返される花々の生と死は、この場所の今と接続しながら、この先も続いていく。その連続性を、永遠の今の中に感じるとき、生命の生と死が遠い過去から今へと連続してきたこと、そしてその連続の上に私の存在があることに気づく。

生命は生命の力で生きている II / Life Survives by the Power of Life II

自分と環境は、不二、つまり、二つに見えるが実際は一つであり、切り離せない。分断の反対とは、統合ではなく、二つに見えるものも実際は一つであることに気が付くことかもしれない。
自然の恵みも脅威も、そして文明の恵みも脅威も、連続的で、つながっている。どこかに絶対的な悪意があるわけでもなければ、かといって綺麗ごとでもすまされない。わかりやすい解などないし、感情すら整理できないかもしれない。それでも、あらゆる状況においても“生きる”それを全部肯定したい。生命はうつくしい。

生命や生きることを意味する漢字「生」を「空書」で立体的に書いている。「空書」とは、チームラボが設立以来書き続けている空間に書く書のこと。書の墨跡が持つ、深さや速さ、力の強さのようなものを、新たな解釈で空間に立体的に再構築し、チームラボの「超主観空間」によって2次元化している。書は平面と立体との間を行き来する。

レンズや遠近法で切り取った作品空間は、ディスプレイ面の向う側に、作品空間が出現する。つまり、ディスプレイ面が境界となり、鑑賞者が存在する空間と作品空間は、分断してしまう。しかし、「超主観空間」の特徴の1つであるが、「超主観空間」で切り取ったこの作品空間は、ディスプレイ面が境界とならない。この作品空間は、ディスプレイ面を超えて、鑑賞者が存在する空間まで立体的に存在しているかのように認知される。作品空間は、鑑賞者の肉体がある空間と連続する。
チームラボについて
アートコレクティブ。2001年から活動を開始。集団的創造によって、アート、サイエンス、テクノロジー、そして自然界の交差点を模索している国際的な学際的集団。アーティスト、プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、数学者、建築家など、様々な分野のスペシャリストから構成されている。 チームラボは、アートによって、自分と世界との関係と新たな認識を模索したいと思っている。人は、認識するために世界を切り分けて、境界のある独立したものとして捉えてしまう。その認識の境界、そして、自分と世界との間にある境界、時間の連続性に対する認知の境界などを超えることを模索している。全ては、長い長い時の、境界のない連続性の上に危うく奇跡的に存在する。 チームラボの作品は、ビクトリア国立美術館(メルボルン)、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館(シドニー)、南オーストラリア州立美術館(アデレード)、オーストラリア国立美術館(キャンベラ)、アモス・レックス(ヘルシンキ)、ロサンゼルス現代美術館(ロサンゼルス)、アジア美術館(サンフランシスコ)、ボルサン・コンテンポラリー・アート・コレクション(イスタンブール)、アジア・ソサエティ(ニューヨーク)などに収蔵されている。 teamLab is represented by Pace Gallery, Martin Browne Contemporary and Ikkan Art. teamlab.art Biographical Documents

来場案内

会場情報

teamLab: Everything Exists in Infinite Continuity

会期

2026.9.22(火) - 2027.2.21(日)

時間

火曜日 - 日曜日 10:00 - 16:30

休み

月曜日

アクセス

住所

シカゴ大学スマート美術館
5550 S Greenwood Ave, Chicago, IL 60637

お問い合わせ

シカゴ大学スマート美術館

Florie Hutchinson 

florie.hutchinson@gmail.com

(415) 515-4696